赤に染まる 永観堂③ [お寺]
入口を入ったところからその美しい紅葉に興奮しっぱなしですが、暫らく経つと境内のお堂なども目に入るようになってきました(笑)。 静かな雰囲気の御影堂やみかえり阿弥陀で有名な阿弥陀堂などが紅葉と相まっていい雰囲気です。 御影堂横の道を多宝塔に上がります。 山の中腹に建つ多宝塔からは境内が見渡せ、その紅葉の美しさがひと際目立ちます。さすがに紅葉の永観堂と称えられる光景でした。
原色のお寺で 永観堂② [お寺]
雨の中でも鮮やかに 永観堂 [お寺]
土、日と職場の仲間と旅行で北陸に行っていましたので、皆様方のブログ訪問が出来なく申し訳ないです。
京都紅葉編、二ヶ所目は京都でも一、二を争う人気のスポット永観堂をお届けします。11月23日のお出かけでは知恩院しか行けなかったのでやや消化不良気味でした。そこで11月25日、代休を利用して京都に再度行ってみました。この日は生憎の雨模様。 今回、向かった先は、永観堂と南禅寺です。
永観堂は、人気のスポットでこれまで敬遠していましたが、今回は平日ですので行ってみることにしました。
周辺は駐車場がないとのことだったので南禅寺に車を停める予定でしたが、すでに車が溢れかえっていました。駐車場を探してうろうろとしていると永観堂の前を通り越してしまい慌てていると偶然にも車が4、5台停められそうなコインパーキングの一台が空き、ラッキーでした(笑)。
初めて訪れた永観堂、いろんな色が入り混じりその美しさに脱帽です(笑)。参りました。お見事です。これなら人気があるのも頷けます。入り口から受付のある山門までそんなに遠くない距離ですが、その間に写真を何枚も夢中で撮ってしまい雨も全然気になりません。ホントにここは、毎年でも訪れたいです。
京都紅葉編、二ヶ所目は京都でも一、二を争う人気のスポット永観堂をお届けします。11月23日のお出かけでは知恩院しか行けなかったのでやや消化不良気味でした。そこで11月25日、代休を利用して京都に再度行ってみました。この日は生憎の雨模様。 今回、向かった先は、永観堂と南禅寺です。
永観堂は、人気のスポットでこれまで敬遠していましたが、今回は平日ですので行ってみることにしました。
周辺は駐車場がないとのことだったので南禅寺に車を停める予定でしたが、すでに車が溢れかえっていました。駐車場を探してうろうろとしていると永観堂の前を通り越してしまい慌てていると偶然にも車が4、5台停められそうなコインパーキングの一台が空き、ラッキーでした(笑)。
初めて訪れた永観堂、いろんな色が入り混じりその美しさに脱帽です(笑)。参りました。お見事です。これなら人気があるのも頷けます。入り口から受付のある山門までそんなに遠くない距離ですが、その間に写真を何枚も夢中で撮ってしまい雨も全然気になりません。ホントにここは、毎年でも訪れたいです。
美しい庭園に大満足 知恩院最終回 [お寺]
ここからは有料、友禅苑 知恩院② [お寺]
知恩院の紅葉に物足りなさを感じていた私は、有料の庭園、友禅苑に入ることにしました。
門の奥に見える色鮮やかな紅葉、今度こそ期待大です(笑)。一歩足を踏み入れると池を取り囲むように赤や黄色、緑がみごとに調和した風景が広がっていました。池の中には阿弥陀様、どうやらポスターに掲載されていたのはここのようです。池の前で何枚も写真を撮ったあと奥に進むと今度はしっとりとした茶室があり、有料でお茶をいただけるようです。さすがに有料の庭園だけあってどこを見ても写真の被写体だらけの場所でした(笑)。
明日20日と21日は職場の旅行で北陸にカニを食べに行ってきます(笑)。明日の記事は予約投稿をする予定ですが、皆さまへの訪問は出来ませんのでお許しください。
門の奥に見える色鮮やかな紅葉、今度こそ期待大です(笑)。一歩足を踏み入れると池を取り囲むように赤や黄色、緑がみごとに調和した風景が広がっていました。池の中には阿弥陀様、どうやらポスターに掲載されていたのはここのようです。池の前で何枚も写真を撮ったあと奥に進むと今度はしっとりとした茶室があり、有料でお茶をいただけるようです。さすがに有料の庭園だけあってどこを見ても写真の被写体だらけの場所でした(笑)。
明日20日と21日は職場の旅行で北陸にカニを食べに行ってきます(笑)。明日の記事は予約投稿をする予定ですが、皆さまへの訪問は出来ませんのでお許しください。
京都の秋は大変でした。 知恩院① [お寺]
紅葉真っ盛りの11月23日、今年は京都の風景を撮りたくて嵐山に向かいました。午前10時前もう少しで嵐山というところで渋滞になりなかなか前に進みません。やっと動いたと思うと休日は嵐山への車の乗り入れは禁止と書かれた看板。パークライド方式の駐車場をご利用くださいの案内板に従って進みます。ところがその駐車場への道がわからず随分と離れたところまで進み、やっとことで見つけた駐車場も満車状態で入れず、ウロウロとするばかりで時間が過ぎていきます。
我慢も限界になり、嵐山は諦め円山公園へ車を走らせます。 いつもはすんなり入れる駐車場も外まで行列(涙)。なんとか順番を待って確保できました。
丸山公園でお昼を済ませ知恩院へ向かいました。巨大な山門も工事中でしたが石段を上り進みます。途中で見つけたポスターの紅葉が美しく期待でワクワクし、歩が進みます(笑)。
御影堂も工事中でしたが、奥にあるお堂の紅葉が美しい赤に染まっていました。しばらく境内を撮影し降りることにし小さな門の中に広がる見事な紅葉が目に留まりました。友禅苑という有料の庭園でしたが、入ってみることにしました。 その見事な庭園の写真は明日のお楽しみということで・・・(笑)。
後で気づいたのですが、奥に色々なお堂があり、知恩院の境内の一部しか歩いていませんでした(涙)。
我慢も限界になり、嵐山は諦め円山公園へ車を走らせます。 いつもはすんなり入れる駐車場も外まで行列(涙)。なんとか順番を待って確保できました。
丸山公園でお昼を済ませ知恩院へ向かいました。巨大な山門も工事中でしたが石段を上り進みます。途中で見つけたポスターの紅葉が美しく期待でワクワクし、歩が進みます(笑)。
御影堂も工事中でしたが、奥にあるお堂の紅葉が美しい赤に染まっていました。しばらく境内を撮影し降りることにし小さな門の中に広がる見事な紅葉が目に留まりました。友禅苑という有料の庭園でしたが、入ってみることにしました。 その見事な庭園の写真は明日のお楽しみということで・・・(笑)。
後で気づいたのですが、奥に色々なお堂があり、知恩院の境内の一部しか歩いていませんでした(涙)。
地福寺から流れ地蔵 出雲探訪記② [お寺]
地域史フィールドワーク出雲編の続きです。 出雲は近くにある地域ですが、お話を聞きながら歩くことで色んな発見がありました。
《地福寺と地蔵石仏》
地福寺は、融通念仏宗のお寺でしたが、今は村の会所として使われています。境内の石仏群の中に室町時代の地蔵石仏があり、病気平癒を祈願した人々が石仏をなでるため面部と足先がひどく摩耗しています。また、隣にある墓地には、明治時代にこの地で亡くなった力士の墓がありました。相撲の始祖である野見宿彌の塚にお参りする力士が絶えなかったようです。
《ダンノダイラの麓に広がる棚田》
地福寺からさらに上に昇ると纏向山のタンノダイラへと続く道に行きつきます。祖先の地であるダンノダイラの麓には、棚田が広がり「棚田米」というとても味の良いお米が作られているそうです。
西には大和国中とよばれる平地や大和三山が眺望できるビューポイントになっていました。
《流れ地蔵》
文化8年6月15日夜半より降り出した雨が、局地的な大雨となり初瀬川が氾濫し民家や旅籠が流され旅人や土地の方、60~70人が溺死するという桜井地方の災害史の中でも最大級の水害が起こりました。この大洪水は「初瀬流れ」と呼ばれ後世に伝わっています。 出雲の上流、長谷寺門前の桜の馬場と呼ばれる場所にあったお地蔵様が、初瀬流れによって流され下流の出雲で腰から下が地中に埋まったまま見つかりました。当時の出雲村の人たちが立派なお堂を建てて祀ったことから出雲の流れ地蔵と呼ばれています。 明治時代に土地の区長さんが土に埋もれたままのお地蔵さんは不自由だろうと掘り返し丁重に祀られたそうですが、その後よくない事が続き、またもとのように埋め戻されたと案内の方にお聞きしました。腰から下の病に霊験あらたかだとのことです。
本日は、ちょっと忙しくniceのみでお許し願っています(汗)。
《地福寺と地蔵石仏》
地福寺は、融通念仏宗のお寺でしたが、今は村の会所として使われています。境内の石仏群の中に室町時代の地蔵石仏があり、病気平癒を祈願した人々が石仏をなでるため面部と足先がひどく摩耗しています。また、隣にある墓地には、明治時代にこの地で亡くなった力士の墓がありました。相撲の始祖である野見宿彌の塚にお参りする力士が絶えなかったようです。
《ダンノダイラの麓に広がる棚田》
地福寺からさらに上に昇ると纏向山のタンノダイラへと続く道に行きつきます。祖先の地であるダンノダイラの麓には、棚田が広がり「棚田米」というとても味の良いお米が作られているそうです。
西には大和国中とよばれる平地や大和三山が眺望できるビューポイントになっていました。
《流れ地蔵》
文化8年6月15日夜半より降り出した雨が、局地的な大雨となり初瀬川が氾濫し民家や旅籠が流され旅人や土地の方、60~70人が溺死するという桜井地方の災害史の中でも最大級の水害が起こりました。この大洪水は「初瀬流れ」と呼ばれ後世に伝わっています。 出雲の上流、長谷寺門前の桜の馬場と呼ばれる場所にあったお地蔵様が、初瀬流れによって流され下流の出雲で腰から下が地中に埋まったまま見つかりました。当時の出雲村の人たちが立派なお堂を建てて祀ったことから出雲の流れ地蔵と呼ばれています。 明治時代に土地の区長さんが土に埋もれたままのお地蔵さんは不自由だろうと掘り返し丁重に祀られたそうですが、その後よくない事が続き、またもとのように埋め戻されたと案内の方にお聞きしました。腰から下の病に霊験あらたかだとのことです。
本日は、ちょっと忙しくniceのみでお許し願っています(汗)。